【ブログ小説】映画のような人生を:第一章「雨に唄えば」

ブログ小説というものを書いてみようと思いまして、ペンを取ったのですがどうやって書けばいいのかわかりませんでした。ブログ小説の第一人者は誰なんでしょうか。

ケータイ小説っていうのがあるとは思うのですが、あれはちゃんと小説サイトに投稿したものです。そうではなく、自分のブログに小説を載せて読まれることなんて事があるのでしょうか?

ブログに載せるからには、そこからなにかの収益を生み出さなければならない。はてどうしたものか。

…という事を思いまして新しい企画として実験的に過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿してみたいと思います。タイトルは映画のような人生をです。

全部で39章分あるのですが、今回はその中で第一章「雨に唄えば」をお送りしたいと思います。

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【ブログ小説】映画のような人生を:第一章「雨に唄えば」

ブログ小説-映画のような人生を-雨に唄えば2

 ここに一台の電話がある。

 幾時経っただろう。電話の前に座り続け、鳴らない電話を眺めていた。変化はない。誰と約束したわけでもない。だから電話は鳴らない。誰かがぼくに連絡を取る必要がなければベルが鳴らないのは当たり前の話なのだ。なのに、ぼくはなぜか海の底で一人取り残されたような取り留めも無い孤独を感じてしまう。

 この部屋は漆黒の闇。闇夜の海底のように静かで光もない。奥の、奥の深い溝。孤独の恐怖が襲ってくる。視界が次第に狭まっていく深海魚。チョウチンアンコウとはこんな気分なのだろうか。部屋の壁がぼくに迫ってくる。息苦しかった。この胸の動悸はどうしたものだろう。おさまれと思えば思う程酷くなる。

 ここの所、偏頭痛に襲われることも多くなった。薬を一つ飲み込む。

『誰か助けてくれ。そろそろ連絡ぐらいくれたっていいじゃないか。誰もぼくを必要としないのか。ぼくが世の中からいなくなっても何も変わらないのか。ぼくはそんなに価値がない人間なのか。ぼくは。ぼくは……』

 頭の中でそんな声が何度も反芻する。

 自分から電話をかける事。何度も考えた。何度も何度も考え、受話器を置いた。自尊心保護。求めるよりも求められたい。必要とされたい。そんな気持ちが心を痛く占領する。弱虫の心。価値のない心。

『お前が電話をかけたとして、もし誰も出てくれなかったとしたら、その孤独感にお前は耐えられるのか。そもそも誰に連絡をするのだ。誰がお前の連絡を待っているのだ』

 頭の中で誰かが言った。頭痛が強くなる。孤独は苦い鉄の味がする。世界は孤独で創られている。頭が痛い。

 電話は絵画のように沈黙を続ける。電話のベルは今日も鳴らない。ぼくは電話を発明したというアレクサンダー・グラハム・ベルを強く恨んだ。『繋がり』を『形』で表してしまったあんたは罪だ。こんなものがなければ、期待もしなかったのに。

 ここまで来ると、自分が目を離した隙に電話がかかってきたらどうしようと外出さえ出来なくなる。賭けごとが持つ博打引力と同じだ。次には当たるかもしれない。次にはかかってくるかもしれない。次には。次こそは……。結局、抜け出せなくなる。

 そんな引力に吸い寄せられ、部屋から出られなくなっていた。かかってこない事はもうわかりきっている事なのに。ぼくは何をやっているのだろう。なぜ、希望を捨てられぬ。

 空が泣いていた。ここ数日、雨は降り続いている。部屋には雨のじめじめとした匂いがたちこめていた。少し前まで雨の気配すらしていなかったのに。一晩明けても、二晩明けても、三晩明けても雨はやまなかった。不安になった。永遠にやむことがないのではないかと思えた。こんなちんけな所に永遠があるのか。馬鹿らしい。

 空は、泣かない。雨は雨だ。

 強がってみても何も変わらなかった。ぼくは無力だった。何一つ自分の力で変化を与える事が出来なかった。なぜぼくは存在しているのだろう。

「雨のせいだ。雨のせいでぼくは外に出ないんだ」誰に向かっての言い訳なのか。部屋で一人、口に出してそう言ってみる。そこには只々、虚しさだけが残った。この声はいったい誰の声なのだろう。自分の声には思えなかった。自信がなかった。

 雨を想う。雨は世間で思われているほど憎むべきものではないのではないか。引っ越してきてまだ間もない頃、ステレオの類いもない中で雨は自然のメロディだった。雨の音を聞いていると、少しだけ気持ちが和らいだ。ショパンのプレリュードのように柔らかく闇を包み込んでくれた。ショパンは雨をどう思っていたのだろう。

『でも、だからどうだと言うのだ。音楽はただの気休めなのだ。音楽は人ではない。今、お前は人のぬくもりが欲しいのではないか。音楽は根本的な解決はしてくれない。音楽は娯楽にすぎない。必要なのは音ではなく、声なのだ』

 頭の中の声が囁く。雨はやみそうもない。頭痛がまたひどくなる。

 雨を眺めながら、ロングピースを齧りマッチで火をつけた。何気なく置いてあった本に手を伸ばす。口の中にほのかに重く甘い香りがひろがる。『死の家の記録』か。

 その本の中の囚人たちは年に幾度もない、自分たちで芝居をする権利を与えられる。そのお祭りに皆で歓喜するページを開いていた。囚人たちは自分たちで演じる芝居を見ている間、獄中の中にも関わらず楽しそうだった。

 ぼくは自分の部屋の中にいるにも関わらず苦しい。ドストエフスキーが言及した通り、獄中の人間よりも外の人間の方がよっぽど弱く、そして不幸な人間なのかもしれない。人間不条理。彼らは常に人に囲まれている。

 ぼくは常に孤独。看守のように見張っている人間はいない。ぼくのダメさ加減に鞭を打ってくれる人もいない。人は自由を求める。自由はぼくを孤独にさせる。自由でなくていい。拘束されてもいい。孤独は闇よりも深い霧のようなものだ。周りが見えなくなる。見えそうで見えない。それは闇よりも怖い。視界が薄まっていく。

 煙草の煙を口に含み、その薄暗い天井に向かって輪を作った。そして輪の中に両手を通す。煙はぼくを拘束することはせず、広がっては消えた。

「都会になんてこなければよかったんだ」

 後悔に押しつぶされそうになったぼくは、ぎしぎしと鳴る重い窓を開け、降りしきる雨のゆるい匂いを嗅いだ。

【ブログ小説】映画のような人生を:第一章「雨に唄えば」あとがき

ブログ小説-映画のような人生を-雨に唄えば-あとがき

いかがだったでしょうか。今回は作品の中に出てきた小説の名前に紹介リンクを貼ってみました。ドストエフスキーの『死の家の記録』ですね。

例えば、雑誌や新聞、はたまた描き下ろしなどを行う小説家の方は、出版元から原稿料とかもらえるわけですが、もしブログ小説家というのが確立されたとして、自分のサイトに作品を書くわけですから出版元は自分になるわけです。

そうなると自分で自分に原稿料を払う事は出来ないので、基本的にはブログに貼る広告料から稼ぎ出さねばならないと思うのです。

ですが、実際の小説家の人もブログ小説家の人も同様に、他人に読まれないことには収益があがらないんですよね。

芥川賞などの大きな賞を取った作品なら、自然と売れていくでしょうが、そうではない本なら、著名人に帯を書いてもらったり、TVで取り扱ってもらったり、なんとか宣伝をしなくてはいけません。

でもですよ、広告料で儲けようと思っているブログ小説家は自分のブログに広告など打てません。本という媒体があって売るのであれば利益も生み出せそうなものですが、他人の広告を乗せるわけですから、収益は小さくなります。

そうなると自然と無料で宣伝をする方法を選ばざるを得なくなりますが、これまた自作小説という媒体が、検索に向いていない。

ブログを少し運営している人だったらわかると思いますが、SEO対策が微妙にやりにくいのです。

ブログは記事の内容を濃く書けば読まれるというわけではありません。何が中に書いてあるのかを意識して検索エンジンに読み取ってもらえるように書かなければならないのです。

世の中にはきっと小説を書いてみたいなぁ〜という人は多いと思います。ブログは自己表現が出来る場所なので土俵としては最適だと思われるかもしれません。

しかし、先程も言ったようになんともSEO対策がやりにくいのです。SEO対策がしにくいとなるとSNSでの拡散か?となるわけですが、一時的なバズでは駄目なのです。

継続的に読んでもらえる状況を作るために、一日のほとんどをSNSに費やして執筆の時間が失われては本末転倒です。そうなるとやはり検索エンジンからの流入を考えねばなりません。

そこでひとつのアイディアとしてすでにある単語からタイトルを考えるというのをテストで試してみています。

『映画のような人生を』というのは、僕の映画レビューサイトの副題です。映画を検索して僕のレビューサイトに到達して、僕に興味を持った人が小説にも興味を持つ。そういう流れを作ってみたらどうだろうか。

とりあえず様々な可能性を探るために1ヶ月間ぐらい様々な方法でブログ小説家という地位を確立出来ないものだろうかと試してみることにします。

良ければご一緒にお楽しみ下さいませ。

ではでは【ブログ小説】映画のような人生を:第一章「雨に唄えば」でした。

野口明人

ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。

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【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告

ブログ小説-映画のような人生を-次回予告

注意:

ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。


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 都会に出てきたのは、大学に通うためだった。

 高校で進路を選ぶ時期、どれだけ考えても、やりたいことなんて何も見当たらなかった。今までなるべく優等生でいようとした。親の言うとおり生きてきた。なんでも卒なくこなしてきたつもりだ。でもそれじゃ何も残らなかった。

次回へ続く!

死の家の記録
4.6

著者:ドストエフスキー
翻訳:工藤精一郎
出版:新潮社

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