【ブログ小説】映画のような人生を:第二十八章「無知」

ブログ小説の二十八回目の更新。無知について。

人類が知恵をつけたのは、アダムが知恵の樹の実を食べたからだというのがありますが、なーんとなく、この樹の実をリンゴだと思っている所あるじゃないですか。

喉仏のことをアダムのリンゴとか言いますし。

ただ、アダムとイヴの話の元になっている旧約聖書の創世記にはどこにもリンゴという記述がないんですよね。一説によるとリンゴではなくバナナだとか、イチジクだと言われている事もあるらしい。

アダムがバナナを食べるってなると、途端におサルさん感がハンパなくなりますが、ダーウィンの進化論で考えるとそっちの方がピンと来たりして、宗教と科学のバランスが取れるような気がします。

知識とは要するに、目の前の事象を納得するためのこじつけみたいなもので、自分が納得出来れば何でも良いのですが、その知識が思い込みで勘違いしているということもあります。

…という事で、ここからは過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。映画のような人生をというブログ小説をお送りします。

全部で39章分あるのですが、今回はその中で第二十八章「無知」をお送りしたいと思います。どうぞよろしく。

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【ブログ小説】映画のような人生を:第二十八章「無知」

ブログ小説-映画のような人生を-無知-あらすじ

 後にぼくが吸ったものがアヘンだと知ったのはそれから数ヶ月も後の事だった。

 僕はそれまでに名前舞踏会に参加しては途中で抜け出しアヘンを吸う会に出席していた。それが習慣化された。親からの仕送りはすべてそこに注ぎ込み、そのうち名前舞踏会以外の日にも吸うようになった。その為だけに生きていた。

 日に日に体がけだるくなり、そのけだるさを取る為に、さらにどす黒いものをパイプに詰めて煙を吸う。もうパイプの古典的なデザインなど気にならなかった。喫煙の雰囲気を楽しむ事なんてどうでもよかった。横になり、地面に沈む。その間は何も考える必要がない。それだけの為に吸っていた。

 ただ正直な話、自分ではアヘンを吸っているなんて気がつきもしなかった。ただただ、何も考えなくてもよくなる不思議な煙草の吸い方なのだと考えていた。いや、考えてもいなかった。頭の中がからっぽだったのだ。

 甘かった。

 ある日、体が非常に痒くなり突然激しい嘔吐に襲われた。それからの事は覚えていない。

 呼吸困難になり、自宅で泡を吹いて倒れていた事は、後で千葉から聞いた。

【ブログ小説】映画のような人生を:第二十八章「無知」あとがき

ブログ小説-映画のような人生を-変化-あとがき

さてさて。無知についての内容だったので、今回は少しそのことについて。

フランシス・ベーコンという16-17世紀のイギリスの哲学者が言った言葉で「Knowledge is Power」というものがあります。

日本語では「知は力なり」と訳されている言葉です。これの意味ってわかりますか?

僕はこの言葉が好きなんですが、これによく似た感じの言葉で「無知は罪なり」というものがあります。かの有名なソクラテスの言葉です。

どちらの言葉も上司からよく言われそうな言葉なので聞いたことがあるかもしれません。「無知は罪なりだよ、君、勉強したまえ」みたいな。

この2つ、どちらも「知」をつけろ的な警句の気がするじゃないですか。

ただ、ソクラテスの「無知は罪なり」には続きがあって「無知は罪なり、知は空虚なり、英知持つもの英雄なり」となっているんですよ。

現代風に訳せば、何も知らないヤツは害悪。知っているだけのヤツは役に立たない。学んで行動するヤツこそがヒーローだ!って所だと思います。

これだとだいぶニュアンスが変わって来ませんか?頭で勝負しろって感じが一変して、それだけじゃ意味ないだよ!ってメッセージに思えますよね。

日本人はこういう諺的な言葉のあたま部分だけを抜き出して知った気分になっている事が多いんですよ。

福沢諭吉が『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』と言ってるじゃん。だから人類みな平等なんだよ

みたいな。

このブログ小説の中でも一度、福沢諭吉の学問のすゝめの勘違いついて書かれていましたが、福沢諭吉は人類みな平等だと言いたかったのではありません

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤きせん上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資とり、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。

引用:「学問のすゝめ」福沢諭吉著

(Kindle版は無料なのでおすすめ)

学問のすゝめの冒頭を読めば、なんとなーくわかると思いますが、福沢諭吉は引用しているのです。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」とアメリカ独立宣言に書かれている言葉をね。

平等だなんだと言ってるのに、実際に世の中の人を見ると全然平等じゃないじゃないか!その差を決めているのは何か。学問だ!

っていうのが本来、福沢諭吉が言いたかったことなのです。

こういう感じで、僕らってかなり「思い込み」が激しい所があると思うんですよ。んでね、本来そういう思い込みで成り立ってしまっている社会に対して警句を出したのがフランシス・ベーコンの「知は力なり」なのです。

フランシス・ベーコンが生きていた16-17世紀はまだまだ哲学全盛期だったわけですよ。

みんながなるほどな〜と思うような哲学や神話を政治家が振りかざして、政権を握っていたわけです。言葉が立つっていうんですかね。そういう人が偉かったわけ。

言葉が立つ人ってある種、知識を持っている人のような気もするじゃないですか。

でもベーコンはそこに限界を感じていたんですね。だからもっと科学的にやれよ!大切なのは観察と実験だろ!原因を知って初めて結果が生み出せるもんだろ!と主張したわけです。

これが本来の知は力なりの意味です。つまりフランシス・ベーコンもソクラテスも、やっぱり同じような事言っているんですよ。

なんとなーく結果だけを受け取って、それがもう常識のように当然なのだと決めつけて、知っているフリしている知識では意味がないのです。

たとえば真っ青なサングラスをかけてみてください。すべてが青がかって見えるでしょ?サングラスかけたんだから当たり前じゃんって思うかもしれませんが、もしこれでサングラスをかけた事を忘れてしまったらどうでしょう。

すべてが青がかかって見えるのが真実だと思っちゃうじゃないですか。色眼鏡で見るって言葉があるように、これが思い込みであり、偏見です。

自分が当然だと思っている事に色眼鏡がかかっていないとは限りません。そんな思い込みをフランシス・ベーコンは4つのイドラとして紹介していますが、その話までしてしまうと話が長くなってしまうので今回はこのぐらいで。

興味があれば「ノヴム・オルガヌム」というフランシス・ベーコンの本を読んでみて下さいませ。絶版なので、探すのは苦労するかもしれませんが、知は力なりの原文と思われる内容が書いてあって面白いですよ。

ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第二十八章「無知」でした。

野口明人

ここまで読んでいただき本当に、本当にありがとうございました!

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【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告

ブログ小説-映画のような人生を-次回予告

注意:

ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。


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 千葉は毎日のように、ぼくの部屋にお見舞いに来てくれた。

次回へ続く!

【ブログ小説】映画のような人生を:今回のおすすめ

ノヴム・オルガヌム
4.8

著者:フランシス・ベーコン
翻訳:桂寿一
出版:岩波書店

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