【ブログ小説】映画のような人生を:第十九章「儀式」

ブログ小説の十九回目の更新。儀式について。

儀式というとあなたはどんなものが思い浮かびますか?辞書的には「神事・祭事・仏事・礼式などの作法」の事を言うらしいのですが、その言葉の堅いイメージとはうらはらに、実際は非常に身近に儀式を取り入れて生活している人がほとんどではないでしょうか。

たとえば、ご飯を食べる時に言う「いただきます」もある種の儀式です。ご飯や味噌汁が置いてあって、その手前に箸が置いてある。これも儀式です。

本来は神から授かった穀物(お米や味噌汁)を橋(箸)渡ししてこっちの世界に来ていただくという意味もあるらしいのです。箸が境界線なんだそうですよ。

なんか古事記に書いてありました。

まぁ、そんな感じで儀式って日本人にとって当然の事のようにおこない過ぎて、本来の意味すらわかっていない事も沢山あるわけです。

夏に踊る盆踊りとかね。あれも櫓の周りをぐるぐる回って踊っていますが、本来は死者を供養するための儀式です。

そこには特別な意味があるのだけれど、よくわかっていなくてもなんとなくやってしまう魅力がある。今回はそんな「儀式」を少し変わった気持ちで行う男の話です。

…という事で、過去に書いた小説をブログ形式に変換して投稿していく企画。小説自体のタイトルは映画のような人生をです。

全部で39章分あるのですが、今回はその中で第十九章「儀式」をお送りしたいと思います。どうぞよろしく。

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【ブログ小説】映画のような人生を:第十九章「儀式」

ブログ小説-映画のような人生を-儀式-あらすじ

 土曜日までは早かった。何をしたというわけではない。ただいつものように家にいて翔子と話したり、ロングピースをくゆらせながら本を読んだりしていたら、いつの間にか時間は過ぎていった。

 ぼくの生活はサークルがなかったら、何一つ変わっていないのではないかと少し戸惑った。ただ、その戸惑いも舞踏会の事を考えると、楽しさですぐに消えた。大学生である必要はないのだ。今、ぼくにとって必要なのは何かに打ち込む事。それがサークル。それでいい。

 その当日は、一人で会場に向かった。舞踏会の開始は十六時からとのことだったが、相変わらず時間のわからないぼくは、起きてすぐに会場に向かった。

 先に着いてしまったら待っていればいいだけの事だ。待つことには慣れている。しかし、千葉がいないという事がこれほど心細いとは思わなかった。ぼくは千葉に依存しているのだろうか。

 また孤独に襲われそうになったぼくは、空を見た。今日はあいにくの曇り空で千葉が言ったようなさわやかな青でぼくの心を浄化してくれたりする昼の青空ではなかった。ただ、この暑さを和らげてくれる雲の存在はありがたかった。千葉もこの雲に感謝しているだろうか。

 やはり会場には早く着いたようだ。周りには人っこ一人見当たらなかった。でも場所に間違いはないはずだ。この会場については、昨日、千葉と一緒に下見をしに来た。下見と言う名の千葉による道案内だ。

 説明会の帰り道、千秋さんに舞踏会の会場の名前を教えてもらったのだけれど、案の定、ぼくはその場所を詳しく知らなかった。困っているのが顔に出ていたのだろう。千葉は、土曜日は無理やけど金曜日道案内しよかと誘ってくれた。千葉は本当に何でも知っている。頼りになる男だ。

 頼りにする事。これは依存になるのだろうか。人は誰しも誰かに頼るじゃないか。ぼくの場合、それがたまたま千葉一人に偏っているだけで、これは依存ではない。そう自分に言い聞かせた。

 今回の会場は説明会の時とは違い、非常にシンプルな建物で、公民館として使われていた建物をどこかの企業が買い取ったものらしい。特に目印もなく、特徴もない。一見見過ごしてしまうような建物だった。建物の壁は壁面緑化で覆われ、それが唯一の特徴だったが、その壁面緑化がさらにその建物を平凡に見せていた。

 千秋さんの話によると、サークルの活動は主にこの建物で行うことが多いという。五百人以上も入る説明会の会場に比べ、こちらは良くても二百人が限界だろう。確かに、毎年、説明会に来た人全員がサークルに加入していたら、この会場ではまかなえそうもない。   

 それにしても説明会であれだけ集まった人間がそれぞれ別の判断をするというのも少し奇妙に思えた。あの説明会の一体感はなんだったのだろう。副幹部の高橋さんが話を終えた時の笑いの波。会場がひとつになったようにみんなが笑った。そんな風に同一感を持った人々が違う結論にたどり着いてしまうのだ。

 ただ、ぼくは参加を選んだ少数派に残った事を少し嬉しくも思った。少ないという事は資本主義のこの国では価値のあることだ。だから多くの同意なんていらない。少なくても、自分に共感してくれる人が存在するというその事実だけで充分なのだ。

 とりあえず時間まで特にすることもなかったので、その建物の周りをぐるぐる回ることにする。曇り具合が散歩には適した気温を提供してくれていた。

 ひたすらぐるぐると回って、三周目、ぼくはあることに気がついた。この建物は正面からはわかりにくいが、ちょうど裏側に回り、建物と建物の間から眺めると、一部、上方に不自然に突起している部屋があるのだ。

 全面がガラス窓に覆われ、教会のステンドグラスを髣髴ほうふつさせた。変な形の建物だなと思いつつも、公民館で使われていたのだから、様々な用途の為に必要なのかもしれないなと納得もした。舞踏会が待ち遠しい。

 時間がくるまでひたすらぐるぐると回るのも流石に飽きそうだったので、近くの喫茶店に入った。喫茶店にある時計を見ると、十四時だった。

 これからまだ二時間近くもあるのかと思いながら、トマトとチーズのサンドウィッチとサイダーを頼んで軽食を取ることにした。考えてみれば、起きてから何も食べていない。今日の舞踏会のイベントだけを念頭に入れて生活をしている自分に気がつき、気が滅入った。これこそ依存じゃないか。

 サンドウィッチを齧り、サイダーを少し口に含んでパンをふやかす。サンドウィッチとサイダーの組み合わせは合わないなと思いつつ、両親の事を思い出していた。

 今頃、母と父はぼくがしっかりと大学に行っていると思っているのだろう。充実した大学生活を送り、地元に戻ってその経験を活かして就職する。

 平凡こそが幸せなのだと母はよく言った。多くの大学生はその通り、大学生活をなんとなく過ごし、みんなが就職するから就職をし、やがて恋人を見つけ結婚し、子供が出来、決して派手ではないが、安定した一生を過ごす。

 それは本当に幸せなのかと自問自答した。幸せは人それぞれだと千秋さんは言った。そして自分で自分を認められるのかどうかが幸せの基準だとも言った。ぼくはそんな平凡な生活をしている自分を認められるだろうか。

 自分の人生を終える時、笑って振り返ることが出来るだろうか。ぼくの幸せの形とはなんなのだろう。ロングピースを取り出し、火をつけた。サイダーの入ったコップの氷がカラリと音を鳴らす。

 今のぼくは自分を認めることが出来ているのだろうか。都会には出てきた。何かを変えてくれると思っていた大学には行かなくなった。部屋に籠り、誰かがぼくを必要としてくれるのを待った。

 そして千葉がやってきた。千葉がサークルの話を持ってきて、今こうやってサークルのイベントに参加しようと時間を潰している。

 ぼくは何かをやったのか。すべては他人任せだったのではないのか。他人がぼくの人生を変えてくれるのであれば、ぼくはぼくである必要はないのではないか。他人の意志。母親の意志。そのレールの上を歩くのが嫌だから都会に出てきたのではないのか。

 それなら、今だって同じじゃないか。ぼくは知らぬ間に灰が床に落ちていたロングピースを皿に押し付け、また新しいロングピースに火をつける。

 サークルアノニムには惹きつけられるものがあった。自分を変えることが出来ると。何度でも何度でも。

 ぼくは大学デビューには失敗した。地元にいた頃の自分と何も変わらない自分がいた。それは環境がぼくを変えてくれると思っていたからだ。環境が変わろうが自分が変わらなければ何も変わらない。

 アノニムの代表の神田さんの言葉にもあった。環境が変わったから自分が変わったのではない。変わった自分を見て環境がそれに適応したのだ。

 ならば、今、サークルに入るという新しい扉を開ける時、まだぼくの事を何も知らない人たちが沢山いる環境を前に、ぼくはなりたい自分を自分で作り上げられるのではないか。ぼくは変わることが出来る。今からぼくは変わるのだ。

 指先の炎は今までのぼくとの決別の炎を燃やしている。この火を消せば、今までのぼくはいなくなる。そして新しいぼくが生まれるのだ。

 ロングピースのソフトパッケージを破り、オリーブの葉をくわえた鳩のマークだけを切り取った。それを灰皿の上に置き、火をつける。鳩が飛び立つと同時に過去の自分は消え、新しい自分が生まれる。

 喫茶店の片隅でぼくはそんな儀式を一人で行っていた。

【ブログ小説】映画のような人生を:第十九章「儀式」あとがき

ブログ小説-映画のような人生を-儀式-あとがき

いかがでしたでしょうか。儀式。それはつまり自分ルール。その昔、アスファルトに書かれた白線の上だけを歩いて帰った事はありませんでしたか?

白い線から落ちずに家へ帰れたら今日はいい日みたいな。はたまた消しゴムに好きな子の名前を書いて、誰にも見られずに使い切ったら両思いになれるとか。

科学的根拠なんてなくても、なぜかそれをやりたくなってしまう。儀式には何かしらの特別な願いが込められている気がします。

はたから見たら、全く意味のわからない行動でも、本人にとってはとっても大きな事。そこには気持ちが存在している。でも気持ちは目には見えない。だから変な行動に思われる。

しかし!誰かにどう思われようが、自分で自分の行動を納得できたらそれで良いのです!自分の行動に意味を見いだせればそれで良いのです。

…とまぁ、サークルアノニムの信者みたいな事を言っているかもしれませんが、僕はちょくちょく儀式を自分で作って、自分の生活に取り入れています。

最近のマイブームは、「起きてすぐに両手を真上にバンザイする」という儀式です。なんか太陽からパワーもらっている気がします。しばらく元気玉作ってます。

ではでは、【ブログ小説】映画のような人生を:第十九章「儀式」でした。

野口明人

ここまで読んでいただき本当にありがとうございました。

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【ブログ小説】映画のような人生を:次回予告

ブログ小説-映画のような人生を-次回予告

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ここから先は次回の内容をほんの少しだけ含みますが、本当に「ほんの少し」です。続きが気になって仕方がないという場合は、ここから先を読まずに次回の更新をお待ち下さいませ。


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「あら、伊波君じゃない」と声がした。

次回へ続く!

【ブログ小説】映画のような人生を:今回のおすすめ

天才たちの日課
4.0

著者:メイソン・カリー
翻訳:金原瑞人, 石田文子
出版:フィルムアート社
ページ数:342

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